昭和43年12月19日 夜の御理解
信心しておれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いとそれを実感致しますね。目に見えるおかげより目に、見えないおかげを受けておると言う事は、段々感じるようになる。けれどもそういうおかげを受けて居ることを、実感させて頂きながらも出来ないこともある。これだけおかげを受けて居りながら、イライラしたり腹立たしかったり、こんなに寂しかったり心がこんなに真っ黒になっては、神様に対して相済まんと感じて居るのですけど、そこが人間だから仕方が無い。
目に見えないところにも、この様なおかげを受けて居ることが分かっておる、実感される、本当にそうだと思われる。神様のおかげを受けて居ると分かっておるのだけど、わかっていないから、それを自分ではどうにも出来ない。倦怠力、言うならば寂しかったり悲しかったり腹が立ったり、イライラしたりまことに人間と言うものは、どうにも出来ないものだなと人間の業というものを感じます。今朝の御祈念に福岡の高橋さんとこお店が休みでしたので、職人さん三人と同道で参ってきております。
三人共熱心に信心を致します。主人である高橋さんの信心について、ところが中に一人滝川さんと云う人が居ります。なかなか考え方のいい昔の修身を地で行くと行った感じの人であり、年寄り臭いことばかり言う人なんです。修身の本に書いてある様なことを何時も言うのです。それで信心が分かりだしたので、有難いことが分かってきたのです。ところがどうしたことか。昨日からどうも雰囲気がおかしい。しかも自分の不平不満を小僧さん達がいますが、そういう人達職人さん三人居ります。
寿司屋ですからあとは出前持ちさんやら女中さんやら、小僧さん達まで焚きつけて何とかかんとか店のためにならんことばかり言う。それが高橋さんの耳に入って来る。他の職人さん達も聞きつけて、日頃のあれに似合わんことを言いよるなと、もう今朝もお参りせんと言うのを無理やりに朝起こして連れて参りましたけど、どっこい表から自動車から降りないと言う。言うなら駄々をこねております。高橋さんも二人の職人さんも滝川さんの御初穂をして心の、お繰合わせを頂きます様にとお願いをする。
自分としてはこういう気持ちで神様の前に出ても同じだと言うわけでしょう。ここまで来て居るのだけれど、自動車の中で眠っとくとか待っとくとか言って出てこない。五時から六時半一時間半かかりますからその間待っておる。ここでお届けが終って皆帰ったとこへ高橋さんは御用で残っとりましたが、そこへ妙な顔をしてやって参りました。お初穂ぶら下げたような風で寄ってきた。そのお初穂には人の為と書いてある。滝川とは書いてない。今日のお初穂整理する時何じゃろかと思うじゃろう。
名前書くところに人の為と書いてある。もうそこにこの人が修身書を地でいくところなんです。自分は人のためになりたい、世のためになりたいと何時も子供の時から思いよった。その自分が人のためどころか自分の為に店全体が暗くなり、そして小僧さん達にまで良くないことを吹き込んでいる。自分が自分で嫌になった。今日でもここで言うのです。先生私は本当に目に見えないとこまでおかげを受けて居ることがよう分かります。よう分かりますけど自分で自分の心がどうにも出来ません。
昨夜も眠ったり眠らなかったり、その事を思ったら自分が嫌になりましたとこう言う。そこでここにあんたは人の為にと書いているが、ほんとの意味で人の為になりたい願いは持っている。そりゃ誰よりも殊勝な心掛けではあるけれども、さあ自分の知恵やら自分が人のためになろうと、思っただけは出来ないことが分かる。神様のおかげを頂かなければ、そして自分の心の天地が開けなければと言うと、ここでカチッと言うおいさみがあった。滝川さんほら聞いてご覧、あんたの心の天地を広げていかないかん。
心の天地を開かせて頂かなできん。それにはあんたが腕こまねいて布団の中で寝ていてはできんのだ。「先生それが実はですね、私は自動車の中で今日はお参りすまいと思って眠っておりました。なかなか眠れません。御祈念の声が聞こえてくる。余計イライラする。それでどうも御神前にぬかずかせて貰う気がせん。そういう中にフラッと眠ったようにあります。そしたらお夢の中に一本の傘を持っております。雨傘それで雨が降ってきたから開こうとすると骨が邪魔して開かれんという傘でした。
骨が邪魔して開かれんという傘。もうそれこそ電気にでもかかったような思いで飛び降りて出て参りました」と言う訳です。ホウ貴方が言う様にね、目には見えぬけど神様がこうやって守って下さっていることが分かる。あんたが神様に駄々をこねている様なそういう中でも、神様が夢の中にでもこげなお知らせを下さるとは、なんと有難いことだろうかね。傘と言えばここでは安心のおかげ、信心の最高の願い最高の有難いと言うのは、安心のおかげなのだ。
傘一本持っておれば雨が降ってきたといって、曇ってきたと言って慌てることはいらないでしょう。さあ日が照ってきたと言って暑い思いをせんで済むでしょう。この傘一本持っとけば何時降ってきてもという安心がある。信心とはそれなんです。信心を頂いておる。いよいよの時には、神様がござるから神様にお縋り出来るから神様が守って下さるからと思う。それが安心なのです。それが傘なのです。
ところがその傘を頂いておりながらも骨が邪魔して開かれんと云うそこが分からにゃいかんとこじゃなあ、云うならあんたの土性骨云うならあんたの骨の随まで腐った心と云うかね、これをメグリと云う。自分ではどうにも出来ないそれなんです。目に見えぬがこういうおかげを受けていると分かっていながらそこに感謝も湧かなければ喜びも湧かない。そして神様なんか参るもんかと云った様なジレンマさえある。そしてもう自分のような者はつまらんと駄目だと不平不満を周囲にまでまき散らしている。
周囲の者まで暗くなっている。さあ二人の職人さんが心配をして滝川さんがこうですから、どうもお店が面白くありません。主人の高橋さんにもそれが響いてくるから、どうぞあの方の心の上にお繰合わせ頂きます様にと、言うて三人の者が三人共その事をお願いさして頂いて、お取次の働きと申しましょうか、ここにわざわざ福岡から参ってきとって、自動車の中で俺や参らんと言うて駄々をこねている。その滝川さんにその眠っている間にそういうお知らせを頂いた。
もうそれこそあれからここに来るときと、帰っていく後ろ姿を見ただけでも分かるごと、生き生きとして帰りました。もう先生この気持ちを聞いて頂いたら大将が喜ぶでしょう、大将が喜ぶことこうすりゃ喜ぶこと知ってる。皆さんでもそうでしょうが。自分がこうなったら主人が喜ぶことも、親父さんがお父さんが喜ばっしゃることも、お母さんが喜ばっしゃることも分かっとるばってん言おうごとなか。
それどころか却って相手の心を傷つけることを言うてみたり、人間というものはどうにもできない土性骨の中に、その骨の中にそういう汚いものがあることを分からせて貰うて、それをお取り払い頂くところにお道の信心があるのです。これが段々限りなく美しくなりましょう、限りなく骨の随まで美しくなることに努めさせて頂くところにです、それこそ人が悔やむところでも、悲しがるところにも不平不足を言うところでも、心の中に湧いて来るものは、漂々と有難いことばかりが出て来る。
人が安心する、人が喜ぶことばっかりしか出てこない。自分の心は何時も春のように豊にある。有難いなあ、勿体ないなあと云う心が何時も湧いて来る。だから骨の随の処までお互いが自分と云うものを見極めてそこのところを改まっていこう、清めていこうと云うことが出来なければ、いけないと云うことを感じます。もうたったこれだけのことを一口にですね、人の心をブスッと突き刺すような事を言う人があります。その人が相手に信心があればですね、それに依ってハッと気が付くことがあります。
ところが信心が無いと、あの人から傷つけられたからもう一辺傷つけて戻そうと云うことになります。そこに争が起こる。信心が本当に出来た人ならブスッと突かれたら突かなければならない自分と云うものを見極めるから、私はそういう時にはすぐお広前に出て来ることにしています。人に皮肉の一つも言われた時には皮肉を言うて返すじゃなくて、すぐ御神前にぬかずかせて頂くような気持ちにならにゃいけません。そすと言われたことが有難いことになるのです。不思議です。信心はそれが有難いのです。
あんた妙な事ばかり言うばいの、こう言ったらもうおしまいです。黙って聞いとりゃこういうことになるところから、世の中に争いになるのです。ですからどうでもひちつお互いが先ず信心さして貰うて、信心して居れば目に見えるおかげよりも目に見えないおかげが多いとう事が分る信心。同時にこういうおかげを頂いて居る中にどうしてこんなに腹が立つやろか、こういうおかげの世界に有りながらどうして心がこんなに寂しくなるやろか、そこんところに自分の骨の随まで。
そういう時に開かせて頂く傘を頂ながら骨が邪魔して開かれんと言う事になって居る。そして自分が嫌になってくる程に自己嫌悪に、自分という者が嫌になってくる。ほんとに自殺などする人は自分という者がギリギリ嫌になって来るわけです。そこんとこを信心さして頂く者は、こういう私でも神様のこういうお守りを受けて居る、同時に信心友達と云うものが有難いと思うですね。今日高橋さんのお届けと云い職人さん二人の人達が同じ職人仲間の事をお取次頂いて。
滝川君がこういう状態ですからどうぞお繰合わせ頂きます様にと今日は二人の者がそれこそ引っ張り込むようにして起こして自動車の中に乗せてきたけれどもどっこい表まで来て俺は参らんと言う。ここまで来て君なんち言うかとちょっと降りてちょっと親先生にお取次頂けと言うけど、いいやこんな心で参っても同じことと言って駄々をこねてどうしても参らん。その滝川さんに神様がそういう中にあっても働きかけて下さってある。心の天地が開かれるように不思議なこと。
お徳に触れることに依って来る時の表情と帰る時の表情と言うたらもう善人と悪人と云おうが白と赤と言おうかそれこそ憂欝な心が明るいじゃなくて有難くなって、私が助かった事を二人の職人にも話し大将に言うたら大将が喜ぼうと。大将が喜ぶことは分かっておる、自分がこういう気になれば。そこになれないところに人間の業があります。人間の業の深さを感じます。そこに業のお取り払い、そこにただ腕こまねいておるだけでは、業のお取り払いは出来ない、そこに修行が必要です。お取次を願わねばいけないことが分かります。
どうぞ。